更新日:2024/04/01
寒さも和らぎ、暖かくなってきましたね。春と言えば桜のシーズン。満開の桜の下でお花見を楽しむ方も多いのではありませんか。今回は、日本特有の習慣であるお花見のルーツと食べ物についてご紹介します。
お花見は、奈良時代に中国から伝わった梅の花を愛でる行事に由来しています。今でこそ「お花見=桜」が主流になっていますが、その当時は梅の花を見て楽しんでいたようです。また、当時の和歌に登場する花も桜より梅のほうが多く、桜より梅が人気だったことが分かります。では、今のように桜が愛でられるようになったのはいつからなのでしょうか?それは平安時代のことで、遣唐使の廃止が関わっていると言われています。梅の花が人気であったのは、中国の文化の影響を強く受けていたと考えられ、遣唐使が廃止されたことにより、日本独自の文化が発展し、日本に古くから自生していた桜が注目されるようになりました。当時のお花見は桜の下で宴会をするといったものではなく、貴族が美しい桜を愛でながら歌を詠むものが一般的でした。
一方で農民の間では、別の意味で古くからお花見が行われていました。桜の木は山から下りてきた田の神様が宿る場所とされ、桜の花が咲くと神様に供えるお酒やごちそうを持ち寄り、豊作を願ったり、桜の咲き具合でその年の農作物の吉凶を占ったりしていたそうです。桜は五穀豊穣を願うとともに、田植え開始の目安とされており、このころは今のように娯楽として楽しんでいたわけではありませんでした。
お花見が娯楽として庶民の間に広まったのは、江戸時代。このころになると園芸が盛んになり、桜も品種改良され、身近でお花見ができるようになりました。また、八代将軍徳川吉宗は、多くの人にお花見を楽しんでもらおうと、王子の飛鳥山や隅田川の堤、品川の御殿山などに多くの桜を植え、お花見を人々にすすめました。このころから庶民が桜を見に集まり、桜の下でお弁当を食べながらお花見を楽しむようになりました。
■花見弁当お弁当という言葉が文献に登場したのは、江戸時代初期。その当時のお弁当は、仕事などに持っていく日常的なものが多く、おにぎりに漬物、みそなどを添えたシンプルなものだったようです。江戸時代中期になると、仕事以外に旅行や行楽などで外出する機会も増え、お弁当の文化が広まります。おかずもバラエティ豊かなものになり、詰め方にこだわるほか、お弁当箱のデザインも楽しむようになっていきました。そして、江戸時代後期になると料理本にお花見弁当の献立が登場します。それは、春の旬の食材を使った色とりどりなおかずとデザートまで入ったものでした。
■花見だんごお花見のときにだんごを食べるようになったのは、豊臣秀吉が大茶会を春に開いたときに日本中の甘味を集めて披露したことが由来とされています。お花見をしながらお菓子を楽しむという風習が江戸の庶民にも受け入れやすく、日本中に浸透していきました。花見だんごは、赤、白、緑の3色ですが、なぜこの色なのかご存知ですか?これには諸説ありますが、「赤(ピンク)」は桜を表し春の息吹を、「白」は白酒(桃の節句に飲むお酒)を表し冬の名残を、「緑」はよもぎを表し夏の予兆を表現していると言われています。春、夏、冬はあるのに、秋が無いですよね?これは「秋がない=飽きない」という意味も込められているようです。そして、色だけではなく串にさす順番も決まっており、1番上が赤、2番目が白、3番目が緑とされています。これは赤いつぼみがついたあとに、白い桜の花が咲き、散った後に緑の葉が成長する、桜が咲く順番を表していると言われています。
■桜もち桜もちは大きく分けて関東風の「長命寺(ちょうめいじ)」と、関西風の「道明寺(どうみょうじ)」の2種類があります。長命寺は、食紅でピンク色に染めた生地であんを包み、塩漬けの桜の葉を巻いたものです。その昔、長命寺の門番であった山本新六が隅田川沿いに落ちている桜の葉を何とか出来ないかと考え、塩漬けにして生地にあんを包んだものに巻いて売り出したのがはじまりです。関東ではこちらのタイプの桜もちが主流となりました。一方「道明寺」は、道明寺粉で作った生地であんを包み、塩漬けの桜の葉を巻いたもので、道明寺粉の粒々とした食感が特徴です。道明寺粉とは、もち米を蒸して乾燥させ、それを粗挽きにしたもので、大阪の道明寺で保存食として作られていたのが始まりとされています。関西では、こちらのタイプが主流です。しかし、現在では関東関西問わず、和菓子店では両方が売られることが多くなってきています。
日本ならではのお花見。満開の桜の下で花を愛でながらお花見弁当を食べ、家族や友だち、仕事仲間と素敵なひとときを楽しんでください。
Text by まち/食育インストラクター
寒さも和らぎ、暖かくなってきましたね。
春と言えば桜のシーズン。
満開の桜の下でお花見を楽しむ方も多いのではありませんか。
今回は、日本特有の習慣であるお花見のルーツと食べ物についてご紹介します。
【お花見の歴史】
お花見は、奈良時代に中国から伝わった梅の花を愛でる行事に由来しています。
今でこそ「お花見=桜」が主流になっていますが、その当時は梅の花を見て楽しんでいたようです。
また、当時の和歌に登場する花も桜より梅のほうが多く、桜より梅が人気だったことが分かります。
では、今のように桜が愛でられるようになったのはいつからなのでしょうか?
それは平安時代のことで、遣唐使の廃止が関わっていると言われています。
梅の花が人気であったのは、中国の文化の影響を強く受けていたと考えられ、遣唐使が廃止されたことにより、日本独自の文化が発展し、日本に古くから自生していた桜が注目されるようになりました。
当時のお花見は桜の下で宴会をするといったものではなく、貴族が美しい桜を愛でながら歌を詠むものが一般的でした。
一方で農民の間では、別の意味で古くからお花見が行われていました。
桜の木は山から下りてきた田の神様が宿る場所とされ、桜の花が咲くと神様に供えるお酒やごちそうを持ち寄り、豊作を願ったり、桜の咲き具合でその年の農作物の吉凶を占ったりしていたそうです。
桜は五穀豊穣を願うとともに、田植え開始の目安とされており、このころは今のように娯楽として楽しんでいたわけではありませんでした。
お花見が娯楽として庶民の間に広まったのは、江戸時代。
このころになると園芸が盛んになり、桜も品種改良され、身近でお花見ができるようになりました。
また、八代将軍徳川吉宗は、多くの人にお花見を楽しんでもらおうと、王子の飛鳥山や隅田川の堤、品川の御殿山などに多くの桜を植え、お花見を人々にすすめました。
このころから庶民が桜を見に集まり、桜の下でお弁当を食べながらお花見を楽しむようになりました。
【お花見に欠かせない食べ物】
■花見弁当
お弁当という言葉が文献に登場したのは、江戸時代初期。
その当時のお弁当は、仕事などに持っていく日常的なものが多く、おにぎりに漬物、みそなどを添えたシンプルなものだったようです。
江戸時代中期になると、仕事以外に旅行や行楽などで外出する機会も増え、お弁当の文化が広まります。
おかずもバラエティ豊かなものになり、詰め方にこだわるほか、お弁当箱のデザインも楽しむようになっていきました。
そして、江戸時代後期になると料理本にお花見弁当の献立が登場します。
それは、春の旬の食材を使った色とりどりなおかずとデザートまで入ったものでした。
■花見だんご
お花見のときにだんごを食べるようになったのは、豊臣秀吉が大茶会を春に開いたときに日本中の甘味を集めて披露したことが由来とされています。
お花見をしながらお菓子を楽しむという風習が江戸の庶民にも受け入れやすく、日本中に浸透していきました。
花見だんごは、赤、白、緑の3色ですが、なぜこの色なのかご存知ですか?
これには諸説ありますが、「赤(ピンク)」は桜を表し春の息吹を、「白」は白酒(桃の節句に飲むお酒)を表し冬の名残を、「緑」はよもぎを表し夏の予兆を表現していると言われています。
春、夏、冬はあるのに、秋が無いですよね?
これは「秋がない=飽きない」という意味も込められているようです。
そして、色だけではなく串にさす順番も決まっており、1番上が赤、2番目が白、3番目が緑とされています。
これは赤いつぼみがついたあとに、白い桜の花が咲き、散った後に緑の葉が成長する、桜が咲く順番を表していると言われています。
■桜もち
桜もちは大きく分けて関東風の「長命寺(ちょうめいじ)」と、関西風の「道明寺(どうみょうじ)」の2種類があります。
長命寺は、食紅でピンク色に染めた生地であんを包み、塩漬けの桜の葉を巻いたものです。
その昔、長命寺の門番であった山本新六が隅田川沿いに落ちている桜の葉を何とか出来ないかと考え、塩漬けにして生地にあんを包んだものに巻いて売り出したのがはじまりです。
関東ではこちらのタイプの桜もちが主流となりました。
一方「道明寺」は、道明寺粉で作った生地であんを包み、塩漬けの桜の葉を巻いたもので、道明寺粉の粒々とした食感が特徴です。
道明寺粉とは、もち米を蒸して乾燥させ、それを粗挽きにしたもので、大阪の道明寺で保存食として作られていたのが始まりとされています。関西では、こちらのタイプが主流です。
しかし、現在では関東関西問わず、和菓子店では両方が売られることが多くなってきています。
日本ならではのお花見。
満開の桜の下で花を愛でながらお花見弁当を食べ、家族や友だち、仕事仲間と素敵なひとときを楽しんでください。
Text by まち/食育インストラクター